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西田幾多郎

古今東西の名言

【浄土の風だより】
 


善とは一言にていえば人格の実現である


我心深き底あり  喜びも憂いの波も  とどかじと思ふ


なにゆえに宗教が必要であるか などと尋ねる人がある。しかしかの如き問は 何故に生きる必要があるか というと同一である


経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。


我々は普通に意思は自由であるといっている。しかし……元来我々の欲求は我々に与えられたものであって、自由にこれを生ずることはできない。ただある与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである。


真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意思の根底に横たわれる深遠なる統一を自得するのである。


いわゆ唯物論者なる者は、物の存在ということを疑のない直接自明の事実であるかのように考えて、これを以て精神現象をも説明しようとしている。しかし少しく考えてみると、こは本末を転倒しているのである。


情意が全く個人的であるというのは誤である。我々の情意は互に相通じ相感ずることができる。即ち超個人的要素を含んでいるのである。


大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。


善を学問的に研究すれば色々の説明ができるが、実地上真の善とはただ一つあるのみである、即ち真の自己を知るというに尽きている。我々の真の自己は宇宙の本体である


主観は自力である。客観は他力である。我々が物を知り物を愛するというのは自力をすてて他力の信心に入る謂[いい](理由)である。人間一生の仕事が知と愛との外にないものとすれば、我々は日々に他力信心の上に働いているのである。学問も道徳も皆仏陀の光明であり、宗教というものはこの作用の極致である。


愛宕山入る日の如くあかあかと  燃やし尽くさん残れる命


人は人吾はわれ也  とにかくに  吾行く道を吾は行くなり



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浄土の風だより(浄土真宗本願寺派 浄風山吹上寺サイト)