平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

信心の実践について


質問1:

「本物の宗教って何?」や「Q&A」のコーナーを拝読し、伝統仏教にもここまで衆生の悩みや疑問に真摯に向かい合い、生きた仏教の教えを説かれている方々がいるんだと感動しました。最近思うところあって、自分に合った宗教実践の道を探しており、多くのことが胸に響きました。とくに、最終的に道を一つ決め、自分の学びを正してくれる人を持つことの大切さ、本当にその通りだと痛感しております。

 そこで質問ですが、在家信者として浄土真宗を学び、実践していく場合、今具体的にどのような道・かたちがあるでしょうか。また何をなすべきでしょうか。(キリスト教なら、日曜日の礼拝や週日の聖書勉強会・祈祷会などあり、禅なら毎週の座禅会をなさっているところもあるようですが...)

2/23



返答1

当サイトは、かなり長い文章が多く、「一生懸命書いたけど、こんな長い文、WEBで読んで頂けるかな」という懸念がありましたが、ありがたいことに、熱心に読んで頂ける人が多く、感激しております。

 さて、まず【本物の宗教って何?】についてですが、このコーナーは、宗教のある種「危険な面」を念頭において書かせて頂きました。
 実際に自分の世界を狭める形で宗教に関わっている人たちが多く、組織優先の教団の弊害について、つっこんで書きました。

 T様は、「最近思うところあって、自分に合った宗教実践の道を探しており」ということだそうですが、自ら求める心があれば、必ず目的を果たす事が出来るはずです。
【本・映画(ビデオ)の紹介、評論】のコーナーでも書きましたが、ジャン・エラクル著 『十字架から芬陀利華へ』の中にも、

「人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです」

とありまして、これは本当の事だなと、最近つくづく思い知らされることです。
 私自身は、周りにごく日常で関わってくれる家族があり、また、多くのお説教師さん方のお話を聞く機会に恵まれ、ご信心を喜びながら、また喜べない自分も見させて頂き、そんな自分を大きく包んで下さるはたらきにおまかせする毎日です。

 ご質問の「在家信者として浄土真宗を学び、実践していく場合、今具体的にどのような道・かたちがあるでしょうか。また何をなすべきでしょうか」ということですが、浄土真宗は1にも2にも 『聞法』 に尽きます。
「阿弥陀如来の成仏のいわれを聞く」ということです。「何があっても私を救い、仏にする」という如来の呼び声にうなずいてゆくことです。
 ただそれだけの事ですが、そこで本当に深くあたたかい世界をいただく事ができます。

 まずは「多くの法話を聞く」ということから始めて下さい。また、親鸞聖人や蓮如上人については多くの書が出ております。

合掌

2/25


質問2:

早速の丁寧で心のこもった回答、ありがとうございました。

》当サイトは、かなり長い文章が多く、
》「一生懸命書いたけど、こんな長い文、WEBで読んで頂けるかな」という
》懸念がありましたが、ありがたいことに、熱心に読んで頂ける人が多く、
》感激しております。

 私の場合、【本物の宗教って何?】と【Q&A】は頑張って全部プリントアウトして、アンダーラインを引きながら読み、胸に響いたところをノートに抜き出してまとめました。(^.^) 
 今後も折に触れ読み返して、信心の上で忘れてはいけないところを思い出させていただこうと思います。
 以下、追加の質問がありますので、何卒よろしくお願い致します。またすごく基本的な質問ですみません。

》ご質問の
》「在家信者として浄土真宗を学び、実践していく場合、
》今具体的にどのような道・かたちがあるでしょうか。また何をなすべきでしょうか」
》ということですが、浄土真宗は1にも2にも 『聞法』 に尽きます。
》「阿弥陀如来の成仏のいわれを聞く」ということです。
》「何があっても私を救い、仏にする」という如来の呼び声にうなずいてゆくことです。
》ただそれだけの事ですが、そこで本当に深くあたたかい世界をいただく事ができます。

 浄土真宗の在家信徒の日常生活の中では、「念仏」「読経」「写経」などは、どのように位置づけられるのでしょうか。
 また、密教や禅でいう「行」のようなもの(あるいはそういう観念自体)はあるでしょうか。

2/25


返答2

 追加質問の件、他の編集委員からも返答が寄せられましたので、まずそちらの方を載せます。


 本願寺派の教学的な見解には詳しくありませんので、私の個人的な理解の上で申し上げます。

 「念仏」=御文章(聖人一流章)にもありますように、阿弥陀様が私を往生させて下さる事への感謝の心から出る称名の念仏で、浄土真宗における唯一の「行」(報恩行)。

 「読経」=「念仏」と同じ心から行う事だと思います。阿弥陀様のことを説かれ た経典を読誦することによって「仏徳讃嘆」をするわけですね。法要儀式(聞法を 伴うのが基本ですが)の際は、「念仏」に加えて「読経」をする。(蓮如聖人は集ま った人が皆で声を合わせて「読経」することによって連帯感を強めた、と言われて います)

 「写経」=昔の出家僧侶は漢文の経典をそのまま読めて、理解出来るように勉強 したのだろうと思いますが、その学習の第一の方法が「写経」だと思います。浄土 真宗では現代の言葉で聞法(お聴聞)しますから、「写経」の必要はないと思います。

[H.T]


 私からも申し添えますと、「念仏」「読経」「写経」のどれもが尊い行為ですが、 肝心要は「信心」にあります。
 ただ、真実「信心」があれば、必ず「念仏」を伴います。そしてそのすべては私たちの「はからい」を超えた如来(真実の願いが悠久の歴史に報いた身)のはたらきによるものです。・・・このあたり、理屈は簡単なのですが、私自身、腹におさまるまでかなり年月を要しました。
 (ただし「理解した」というものでも、「信じ切る」というものではありません)
 「これをしたら、その報いで成仏できる」という教えは多いのですが、これでは取り引きですから、信心ではありません。

2/28


質問3

 追加質問に対しての丁寧なお返事ありがとうございました。

「念仏」「読経」「写経」についての私の質問に対する回答から、在家の真宗信徒として朝晩お経をあげて勤行したりするようなことが、特に求められたり勧められたりすることはない、と読み取りましたが、それでよろしいでしょうか。

「念仏」も、「報恩行」ということであれば、如来のはたらきのありがたさ、その掌にある自分に心の底から目覚める−「信心」を確立することがまず第一でありましょうし、またその時自然に「念仏」を唱えずにはいられない気持ちになるものだということをおっしゃていられるのだろうと理解しました。

 そして、唯一の行である「念仏」さえも、結局各自の心、「信心」に任されているところに、他力の道ならではの深さと厳しさを感じました。座禅、読経、写経などの「かたち」が与えられば、凡夫もいやでもそれを通じて自分を見つめ、反省・思索の時間を持つ ことにもなるでしょう。
 それに対して例えば月一回程度法話を聞いて、今までの「我」を砕き、如来のなかでこそ生かされてきた自分に目覚めることは、本当に道を求める心が深くないと、なかなかに難しい道と思いました。下手をすると、安易な「安心」の境地で満足してしまうこともあろうかと存じます。

2/28

返答3

 メール頂きまして“短期間に、随分勉強なさったなあ”と、感心いたしました。ただ、少し気になる点もございますので、少し補足させていただきます。

》「念仏」「読経」「写経」についての私の質問に対する回答から、
》在家の真宗信徒として朝晩お経をあげて勤行したりするようなことが
》特に求められたり勧められたりすることはない、と読み取りましたが、
》それでよろしいでしょうか。

 前回の返答で、「信心が肝要」ということを申しましたが、「念仏」や「読経」は「信心と直結している」ということも言えるのです。ですから「念仏」も「読経」も大いにお勧めします。
 これは「勤行」と申しまして、文字どおり「勤め行う」訳ですから、喜び勇んでする念仏も、人から勧められてしぶしぶするような念仏も、どちらも尊いのだということをお忘れなくして下さい。
 もし「心の底から感謝の念でしなくては本当の念仏ではない」ということでしたら、これは脅迫ですからね、その思い込みこそ「自分のはからい」でしょう。
 私たちは、娑婆の冷たく厳しい世間に足を踏み入れていても、もう一方の足は浄土という真心に包まれた環境に立っている。そのことを自覚させていただくのが信心でしょう。
 浄土に往生したいと願えば、浄土の土徳に育てられ、娑婆に還れば名号が私を育ててくれます。

 前回のメールで
(ただし「理解した」というものでも、「信じ切る」というものではありません)
と括弧付きで書きましたが、本当の信心はもっとゆったりとした、広い広いお心を頂くことで、私自身の心の狭さまでも包み込んでしまう、信じきれない自分も包み込んでしまう
 そういう如来の大きなはたらきによるのです。

》「念仏」も、「報恩行」ということであれば、如来のはたらきのありが
》たさ、その掌にある自分に心の底から目覚める−「信心」を確立
》することがまず第一でありましょうし、またその時自然に「念仏」を
》称えずにはいられない気持ちになるものだということをおっしゃて
》いられるのだろうと理解しました。

これは全くその通りです。

》そして、唯一の行である「念仏」さえも、結局各自の心、「信心」
》に任されているところに、他力の道ならではの深さと厳しさを感じ
》ました。座禅、読経、写経などの「かたち」が与えられば、凡夫も
》いやでもそれを通じて自分を見つめ、反省・思索の時間を持つ
》ことにもなるでしょう。それに対して例えば月一回程度法話を
》聞いて、今までの「我」を砕き、如来のなかでこそ生かされて
》きた自分に目覚めることは、本当に道を求める心が深くないと、
》なかなかに難しい道と思いました。下手をすると、安易な「安心」
》の境地で満足してしまうこともあろうかと存じます。

浄土真宗も「かたち」をないがしろにはしません。それはやはり「念仏」であり、「読経」です。
「道を求める心が深くない」という人をも救うのが如来のはたらきですから、「念仏」も「読経」も、「かたち」として大切にします。これほど素晴らしい「ご縁」はありませんからね。
 ただし、「道を求める心が深くない」人は、そのままで良いわけではありません。「道を求める心を深くして、仏道をまっすぐに歩んでほしい」との親心こそが如来の本音で、それでも「まだまだ道を求める心が深くない」と反省・懺悔するのが私たちの道心です。

 ただ、「かたち」は大切にするが、「とらわれてはいけない」ということです。
「100万回念仏をしなくてはいけない」とか「読経をしないと救われない」ということは言わないだけです。
 もっと言うと「躍り上がるほどの喜びがなければいけない」ということも言いません。こちら側の「かたち」や「心」のありかたさえ、全く条件に入れすに救いとられるのが如来様です。

 親鸞聖人のお手紙の中に「自然法爾」についての記述がありますが、「かたち」についても要点を述べられてみえますので以下に引用させていただきます。

浄土真宗聖典 P.768

自然法爾の事
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
 弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

正嘉二年十二月十四日

3/2


質問4

 メール拝読しました。
「勤行」として、また「ご縁」としての「念仏」「読経」のこと、わかりやすく説いていただき、ありがとうございました。

「かたちにとらわれてはいけない」ということも、ご説明いただいて胸に落ちましたが、しかし、「自然法爾」ということは、一生のテーマとなる奥深いものだと思いました。

「はからい」を否定し、「義なきを義とす」、
「かたち」のないことが「自然」であり、
「自然」のことは「沙汰すべきではない」

言うはやすいかもしれませんが、ある意味、これほど人間にとってむずかしいことがあるでしょうか。畢竟、人間とは本来的に「意」を働かせずにはいられない存在だと思うからです。
さらに
「つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。」
というに至っては、無限ループの「はからい」の否定の道の前に立たされたようで、思わずうなってしまいました。

インターネットで見られるお寺の法話もいくつか拝読したのですが、実際、ラディカルな「はからい」の否定、「自然法爾」論にも出会って、少し衝撃を受けています。

 いわく、法話なんて一生懸命聞く必要ない、居眠りしていていいんだ
 いわく、どうしようもない私を、向こうからつかまえてでも、どうしてでも往生させてくれる親さま、
 いわく、御名を唱えながら、煩悩のどまんなかで、貧愛瞋憎と遊びながら生きる
 いわく、御本尊に向かって、「バーアバーア」

 他力といっても、殆ど禅の自己否定の道と変わらないように思いました。その一種自由無碍の境地も...
 ここまで行くのが浄土真宗の一般的な道なのかどうかはわかりませんが、しかし、それにしても”「はからいをなくそう」と思うのも「はからい」”というのは、とうてい理屈で達せられる境地ではなく、その深さが思い知られました。

 あと、読んだ法話の中で、「機の深信」の話というのがあえて説明するほどでもない有名な話として言及されていました。これはどのようなお話でしょうか。
 またお教え願えれば幸いです。お忙しいところすみません。

3/3



返答4

》「かたちにとらわれてはいけない」ということも、ご説明いただいて
》胸に落ちましたが、しかし、「自然法爾」ということは、一生のテー
》マとなる奥深いものだと思いました。

》「はからい」を否定し、「義なきを義とす」、
》「かたち」のないことが「自然」であり、
》「自然」のことは「沙汰すべきではない」

》言うはやすいかもしれませんが、ある意味、これほど人間にとって
》むずかしいことがあるでしょうか。畢竟、人間とは本来的に「意」を
》働かせずにはいられない存在だと思うからです。

おっしゃる通りです。
 人は「はからい」の中で生きています。しかしその「私のはからい」を、「頼りにならないもの」であり「自己矛盾(破壊)を起こすもと」であると、見抜くのが如来のはたらきで、見抜かれた自分に目覚めるのが信心でしょう。

 その目覚めを促したはたらきこそ、「如来のはからい」でありそれは「私を無上仏にならしめよう」との誓いから起こされたもので、そのために形なき自然[じねん]より「阿弥陀仏」と名乗られ、私に「南無阿弥陀仏」とたのませて、迎える準備をされていた――
という訳です。

》さらに
》「つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義の
》あるになるべし。」
》というに至っては、無限ループの「はからい」の否定の道の前に
》立たされたようで、思わずうなってしまいました。

実生活で考えていただければ、そんな難しい話ではありません。
 道理を心得た後まで「これは如来のはからいか? 私のはからいか?」などと一々詮索すると、理屈に閉じ込められてしまって、生き生きした生活が失われてしまうためです。
 ただ、こういう人は実際多いんです。

 雲門という禅僧が「悟りを開いた後の心境」として「日々是好日」という言葉を残していますが、道理が腹に入っていけば、道理は詮索する対象でなくなり、「私のはからい」も「如来のはからい」に包み込まれ、ただただ日々の暮らしに集中して、力強く生き抜くことが出来る――
 これは宗旨が違っても共通する心境(境地)だと思います。

》インターネットで見られるお寺の法話もいくつか拝読したのですが、
》実際、ラディカルな「はからい」の否定、「自然法爾」論にも出会って、
》少し衝撃を受けています。
》いわく、法話なんて一生懸命聞く必要ない、居眠りしていていいんだ
》いわく、どうしようもない私を、向こうからつかまえてでも、どうしてでも
》往生させてくれる親さま、
》いわく、御名を唱えながら、煩悩のどまんなかで、貧愛瞋憎と遊びな
》がら生きる
》いわく、御本尊に向かって、「バーアバーア」

 そうですか。前後の文を読んでみないと分かりませんが、【妙好人の言葉を引用しているとしても】理論や言葉の延長線上にそういう文章になったのか、「後からしみじみそう感じられる」という文章なのか、
 前者だと、ちょっと問題がありますね。

》他力といっても、殆ど禅の自己否定の道と変わらないように思いま
》した。その一種自由無碍の境地も...
》ここまで行くのが浄土真宗の一般的な道なのかどうかはわかりま
》せんが、しかし、それにしても”「はからいをなくそう」と思うのも「は
》からい」”というのは、とうてい理屈で達せられる境地ではなく、その
》深さが思い知られました。
》あと、読んだ法話の中で、「機の深信」の話というのがあえて説明
》するほどでもない有名な話として言及されていました。
》これはどのようなお話でしょうか。
》またお教え願えれば幸いです。お忙しいところすみません。

例えば『浄土真宗聖典』P230 「顕浄土真実教行証文類 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈」
の中で、以下のように述べられています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染 にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、 一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行 じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真 心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不 可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩 悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。

「機の深信」は、私自身が「無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」と深く自分自身の姿に気付くことです。
 ちなみにこれと対になって「法の深信」ということが言われます。
 これは「そのような私の姿を見た機ことが、そのまま私の姿を見せしめた法のはたらきである」と受け取れるということです。
 見る対象としての私は無限に深い闇ですが、見る主体としての私は無限に深い闇を照らす智慧の至った真の我であり、無量の寿命が報いた私です。

例えば浄土真宗聖典P1182に

御文章 四帖 11 機法一体章
 南無阿弥陀仏と申すはいかなる心にて候ふや。しかればなにと弥陀をたのみて報土往生をばとぐべく候ふやらん。これを心得べきやうは、まづ南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも南無阿弥陀仏の体は、すなはちわれら衆生の後生たすけたまへとたのみまうす心なり。すなはちたのむ衆生を阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたへましますなり。これを衆生に回向したまへるといへるはこの心なり。されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これすなはちわれらが往生の定まりたる他力の信心なりとは心得べきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

とありまして、「南無阿弥陀仏は機と法が一体になったもの」と理解できます。

合掌

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