平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

いのちより大切なものとは?

「正定聚」が生死の問題を超えて人生を成就する

質問:

『築地本願寺新報』をお寺でいただき読んでいましたら、すごい言葉を見つけました。

 いのちが 1番大切だと
 思っていたころ
 生きるのが 苦しかった

 いのちより 大切なものが
 あると知った日
 生きているのが
 嬉しかった

星野富弘さんの言葉です。
ここにあるいのちより大切なものとは何ですか?

返答

 一般的な認識として、いのちは最も大切なものであり、それ以上のものなどあり得ません。実は仏教もその認識を否定している訳ではないのです。もし「いのちの他にいのち以上のものを見いだそう」という呼びかけがあったら、それはとても危険な思想ということになるでしょう。

 しかし問題は、いのちが単に死を拒絶し先送りすることだけに費やされている、という現状です。しかも、他のいのちを奪ってしか保てないいのち、という罪や絶対的な矛盾にも突き当たります。

「人間は死を抱いて生まれ 死をかかえて成長する」(信國敦)という言葉にもありますが、「死を内に抱えている」という事実を受け入れ、有限のいのちに本来的に具わる無限性を自覚し、本来のいのちを完全燃焼する方向に転じていくことが「いのちより大切なものがあると知る」ということでしょう。仏教ではこれを「滅度」とも「択滅無為」ともいい、聖者の死として尊ぶのです。

 なお、星野富弘さんはキリスト教徒ですから、「肉体のいのちを越える永遠のいのちへの確信」が救いとなってみえるのでしょう。星野さんの他の詩を読んでみますと、仏教にも通ずる自覚を見い出すこともできますが、仏教で言う無限とキリスト教の意味するところは、微妙ですが大きな違いもあります。

 以下、そうしたことを、様々な引用から明らかにしていきたいと思います。

◆ いのちは尊く大切なもの

 例えば、以前 [なぜ人を殺してはいけないの?] でも引用させていただきましたが、『ダンマパダ』という経典には以下のような記述があります。

すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

(129)

すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

(130)

 また『大パリニッバーナ経』(梵本) には、

この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ

とあり、さらに『相応部経典』にも――

 かように私は聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる園にあらわれた。その頃のある日のこと、コーサラ国の王パセーナディは、マリッカー夫人とともに高楼に登って、雄大な眺めをたのしんでいた。そのとき、王はふと夫人に問うて言った。
「マリッカーよ、そなたは自分自身よりも、もっと愛しいと思われる者があろうか」
「大王、わたしには、自分よりももっと愛しいと思うものは考えられない。大王には、ご自分よりももっと愛しいと思われるものが、あるであろうか」
「マリッカーよ、わたしにも、自分自身よりも愛しいと思われるものはない」
そこで王は高楼をくだって、世尊を訪れ、世尊に白して言った。
「世尊よ、今日わたしは、夫人のマリッカーとともに、高楼に登っていた時、ふと、彼女に、この世に自分自身よりも愛しいものは考えられぬ、と答えた。そして、私はどう思うかと問いかえしたが、わたしにも自分自身よりもさらに愛しいものは考えることができなかった。そこで、わたしにも、自分自身よりも愛しいと思われるものはない、と答えるのほかはなかったのであるが、このことはいかがであろうか」
世尊は聞いてふかく首肯き、さて偈をもって、このように教え説かれた。
 「人の思惟は何処へも行くことができる。
 されど、何処へ行こうとも、
 人は己れよりも愛しきものを見いだすことを得ない。
 それと同じように、
 すべて他の人々にも自己はこのうえもなく愛しい。
 されば、
 おのれの愛しいことを知るものは、
 他のものを害してはならぬ」

[3,8 末利]

と記されています。

 以上のような認識はとても大切です。もし「いのちなど最上のものではない。○○のためにいのちを捧げてきなさい」などと言うような生命を軽視する教えであれば、それは人を畜生のように蔑む教えであり、奴隷的な人間を作り出し、結果として国を戦争に誘導するような思想です。人類の歴史の中で「宗教戦争」の絶えたことがないのは、いのちの尊さを基本に据えていない教えや解釈のせいではないでしょうか。

「いのちはこの上なく愛しい」と思うことは、厳然たる事実です。

◆ いのちの矛盾

 しかし、問題はここからです。
 そんなこの上もなく愛しいいのちを、本当に生かしているのかどうか、私たちは真剣に問うたことがあったでしょうか。<単に失うことを恐れ欲望に執着して生きているだけではないのか>。また、<自分のいのちと他のいのちに壁を作り、自分の都合のために他のいのちを蔑み、奪っておきながら、そのことの自覚さえできていないのが私の姿ではないのか>。等々、胸に手を当てて考えてみると、「大切なことは何一つ求めず、言い訳ばかりしてきた人生だったのではないか」という反省・慚愧の念がよぎります。

 そうした人々のあり様を経典では以下のように述べています。

 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。思いがけない水害や盗難などにあい、あるいは恨みを持つものや借りのある相手などに奪い取られ、たちまちそれらがなくなってしまうと、激しい憂いを生じて取り乱し、心の落ちつくときがない。怒りを胸にいだいていつまでも悩み続け、心を固く閉じて気の晴れることがない。また災難にあって自分の命を失うことがあれば、すべてのものを残してただひとりこの世を去るのであって、何も持っていくことはできない。身分の高いものや富めるものでも、やはりこういう憂いがある。その悩みや心配は実にさまざまである。そしてただ苦しみ悩むばかりで、痛ましい生活を続けている。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭(現代語訳)

 ここには、誰もが愛しいと思ういのちが、欲望に振り回され、金銭に悩む様子が記されています。そして、もし富を得て一息ついても、「やがて死がそれら全てを無価値にしてしまう」という憂いを取り除くことはできません。富どころか、命を失うことは全てを失うことで、「完全な無になってしまうのではないか」という孤独感・恐怖心は、どこまでもこのいのちを苛みます。

 私たちは有限の命が有限のまま満足できるようには生まれていないのでしょう。皮肉なことに、生命が愛しく、その大切さに気付けば気付くほど、いのちを失う恐怖心は募ります。しかも、この私の生命をつなぐためには、他の生命を奪わなければなりません。

◆ 本当のいのち

 宗教というものは、こうした絶対的な矛盾に活路を見出すところに生まれたものでしょう。

 仏教でこの矛盾を解決するには、大きく分けて二通りの方法があります。
 まず第一に、世間や自己の存在を迷いとして厭い離れ、煩悩を滅していく方法があります。これは出家をし欲望を絶ち、乞食によって与えられた食物だけで生命をつないでゆく道です。しかし、そこには愛や憎しみを妄執として遠ざけ、涅槃に達しようとする強い意志が必要となります。

 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

『ダンマパダ』210

 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。

同上 211

 ことばで説き得ないもの(=ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。

同上 218

 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰ってきたならば、親戚、友人、親友たちはかれが帰ってきたのを祝う

同上 219

 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。――親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。

同上 220

 こうした、欲望を断じて涅槃を追求する方法は、釈尊の歩まれた道ですが、一旦覚られた後には、出家修行以外でも道が成就することを見出され、それを人々に広く説かれます。これは出家仏教という特殊な方法から在家仏教という普遍的な教えに仏教が転換されたことを意味します。
 そうした教えは後に『大乗仏教』として結実し、「正定聚」という大乗の理想の境地が開かれてきます。これは、人生を肯定し、歴史を創造する方向を一切衆生に打ち出しているのです。

 こうした「正定聚」の境地につきましては、以前 [現世での救い十種] に述べ、またその道が誰にでも開かれていることについて、[難信の法など信じられる人は少ない?] に掲載しましたが、最も肝心なことは、「空虚な人生から、豊かに満足していく人生に転じられる」ということです。

仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。
よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。

天親菩薩著『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論) 総説分

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし

親鸞著『高僧和讃』(一三) 天親讃

「本願力」とは阿弥陀如来の願いを指しますが、単に「如来の願いがそう表現してあるから」ということではなく、自らの在り方が矛盾や煩悩の中にあることを知ってこそ肯ける願いなのです。

煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ

親鸞著『高僧和讃』(七三) 善導讃

 こうした人生の問題が解決に向うということは、死の問題が解決することと同時、もしくはそれを含んでこそ成就するといえます。「正定聚」と「死の問題」のつながりに関して、以下のような文が参考になるでしょう。

「正定聚」は、これから仏になってゆく菩薩のことといわれていますが、それは大乗仏教のいう正定聚です。浄土教でいう正定聚は、親鸞聖人がいっておられるように、「浄土の菩提心」の働く人のことであって、これから仏になるという往相の菩薩のまま、浄土の徳を身につけて、これを現実に具体化してゆく還相の菩薩のことです。・・・仏とは菩薩の内面の徳であって、表は菩薩、内は仏です。これを第二十二願には、「諸仏の行、現前する」といっています。それで正定聚に住することが、一切なのです。その外に私たちが考えているような、死んで仏になるということが別にあるのではありません。内にある徳が身につくことを成仏というのです。それで曇鸞大師が「正定聚に住するが故に」と、正定聚に千貫の重みを置かれていられるのでしょう。「必ず滅度に至る」とあるから、滅度というものがあって、そこに行くように思いますが、涅槃に入ると同じように、死に切る、死んでも悔いがないとさとることです。経にはそれを「善逝」と説いて、仏の十の徳の一つに数えています。善逝とは善く逝くということで、思い残しなく死ぬことができるということです。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』正定聚の願 より

「正定聚に住する」ことで、いのちは有限でありながら有限を超えてゆきます。罪は罪として自覚され、受け入れられ、そして罪の支配から自由になります。それは有限のいのちが無限のいのちと出あうところに開かれた境地です。

 すなわち現在の意識は、常に現在の意識内容として過去と未来とをもっているのであります。この意識があってわれわれは生命があるといわれるのであります。
 だから過去といっても未来といっても、いつでも現在の感じである。その現在が無限の過去をもち無限の未来をもっている。それがすなわち寿命無量なのであります。まことにそうであってほしい。そうでなければ寿命無量は張合いがない。ただ無暗に長く生きていて、私は長生きをしましたというのは、単なる過去の時間の生命であって、自証の命ではない。・・・そうしてまたそこに同体の大慈悲というものがある。そこにほんとうにすべての人がみな命を感じ、一つとなっていうところの寿命無量というものがあるのであります。その光とその命とは、さきほど申しましたように、われわれがついに帰すべきところ、最後の魂の郷里であるべき涅槃界から現れたものであります。

金子大榮著『四十八願講義』十方摂化の願(上)より

 こうした「現在が無限の過去をもち無限の未来をもっている」ということの体験的な言葉としては――

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

『歎異抄』(18) より

――以下意訳―― (『現代語版』(本願寺出版社) より)
阿弥陀仏が五劫もの長間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えばこのわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか

という、親鸞聖人の領解などに顕れています。

 そしてその出会いは、かつては臨終においてのみ語られた内容でしたが、経典の本意は、平生の常なる時間、つまり現在において体験することである、と親鸞聖人は『平生業成』を示されました。

 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。

『親鸞聖人御消息』有念無念の事 より

――以下意訳―― (『日本の名著6・親鸞』(中央公論社) より)
 いまわのきわに浄土からお迎えがあるということは、様々な善行を積んで浄土に生まれようとする人のためにあるのであって、それは、その人が自力をたのむ人だからです。また臨終を待つということも様々な善行を手だてとして浄土に生まれようとする人にあてはまることで、それは、その人がまだ真実の信心をえていないからです。またそれは、十悪や五逆の罪を犯した人が臨終にはじめて正しい友(善知識)の導きに遇って、念仏を勧められる場合にいう言葉です。真実の信心をえた人は阿弥陀仏のお心に救い取られて捨てられませんから、浄土に生まれる(正定聚)身となっているのです。ですから臨終を待つ必要はなく、お迎えをたのむこともいりません。信心の定まるとき、浄土に生まれることも定まるのですから、お迎えの儀式を要しません。

 こうした寿命無量やまた光明無量といった願いが報われ、私たちに至り届いて下さった声が『南無阿弥陀仏』であります。これは呪文のような限定された取引きを目指すものではなく、称える以前から、はるかなる過去からの呼びかけに気づいた、という実に歴史的な、そして歴史を超えた出来事であった訳です。

「南無阿弥陀仏」は、私が称えておると思ったけれども、実は、阿弥陀さまが私をよんでくださるそのお声、お心が、私に届いたということなのでありまして、阿弥陀さまのお心を聞かせていただく、そこに、お念仏の根本があるということを、改めて味わわせていただくことであります。
 私どもは、平生、わが身を頼りにし、わが身によって生きていると思っております。
 しかし、その根本は、実は、阿弥陀如来さまに支えられているのであった、と気づかせていただくとき、広い世界が開かれていることが知られます。

門主法話集『さとりと信心』人まねでない人生を より

 もう一度くり返しますが、「南無阿弥陀仏」は、私が本当の生命の依り所として、時と処を選ばず、嬉しいときも悲しいときも、常に今ここで、阿弥陀さまのお心をいただいているということでありまして、こちらの勝手な都合に合わせて、お念仏を取ったり棄てたりするということではないのであります。
 しかも、本当の依り所をいただいたからこそ、のびのびと精一杯、わが力を尽くして、この人生を生きぬかしていただくことができるのだと、私は味わわせていただいております。

同上 帰命無量寿如来 より

◆ 仏教は自覚的無限、キリスト教は啓示的無限

 このように、「いのちより大切なもの」として、「無限のいのち」・「永遠」とのかかわりを挙げましたが、仏教とキリスト教の間には、微妙ではありますが、根本的な<関わり方の違い>があることも記しておかねばならないでしょう。

 どういうことかと申しますと、キリスト教では「聖書の中にしか答えはない」といい、また「失望したければ世の中を見よ。絶望したければ自分を見よ。希望を持ちたければキリストを見よ」(セーレン・キルケゴール)という語にもありますように、「人は神によって神の喜びのために造られた」という役割を背負う以外に救いは見い出せません。また<神の僕>として<神の喜びを実現する>という使命が課せられているわけです。

 こうした宗教の違いについては比較研究も進んでいるようですが、無限・永遠という捉え方について一例をあげてみましょう。

 キリスト教では<永遠の現在>という。永遠が時間を食い破ってでる。この啓示的であるということがキリスト教の特色である。
 歴史のはじめは<永遠の今>という時間がないと成り立たないということは、人間の世界そのものが宗教的根拠をもつということである。人間は時間的存在である。その時間においてある人間世界に人間を超えた永遠が永遠自身として自己自身を啓示する。永遠が永遠のままで、時間のなかへ時間の法則を破って出てくる。これは時間にとっては奇蹟である。
<中略>
・・・仏教はキリスト教と違って啓示的でなく自覚的であることが特徴である。時間が時間自身の本質を自覚する。それが永遠である。つまり仏教の永遠は時間を奇蹟的に破ってでてくるのではなく、時間自体であって時間の外にあるのではない。意識が三世として自己を失っていた、それが客体であったと自覚する。つまり時間が時間自身を知る。客体的時間を客体であったと知るところに主体的時間を回復するのである。永遠とは識が識の本来性、超越性を自覚する。そういう意味で自覚的なのである。
<中略>
 愛情は感情である。感情は私自身のなかに閉じこもる。つまりエゴである。しかし愛は喜んで自己を捨て、裸になる。愛とは、相手そのものとなることである。キリスト教では愛を奇蹟的にいう。仏教の慈悲は自覚的である。自覚だけが超越であるという。識が識自身を自覚すると識が消えるのではなく、識が真に永遠にかなった識になる、本来性を開示した識になるのである。

 仏教のなかにも個が永遠のなかに消えてしまうような仏教もある。個が涅槃のなかに解消してしまうという考え方もある。しかし、これは正見ではない。相対有限なるものが無限のなかへ解消してしまうのは、有限の真の救いではない。真の救いは有限が無限の象徴になることである。
 無限と有限とがあるのではない。あるのは有限のみである。無限といっても有限の他にあるのではない。だから無限は有限の本来性である。有限が有限を自覚すれば無限の象徴になる。それが超越というこである。この有限ということを真に最後まで保持するのが親鸞教学である。そこに真の個がある。有限が涅槃や絶対無限のなかに解消してしまったり、無限が有限を破って出てくるという考え方は危険である。

『安田理深講義集6 親鸞における時の問題』第二講 意識と時間 より

 以上のように、「無限とのかかわり」の解釈には、宗教によって基本的な違いもあるのですが、教学的なところを離れて星野富弘さんの詩を読みますと、仏教にもつながる言葉を数多く見いだすことができます。

黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なぜ きれいに咲けるのだろう
私は
大ぜいの人の 愛の中にいて
なぜ みにくいことばかり
考えるのだろう

「花しょうぶ」

 この詩など、まさに以下の『華厳経』の蓮華を思い起こさせる内容です。

 例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、迷いを離れてさとりがあるのではなく、誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。
 あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、迷いの泥海の中に入らなければ、さとりの宝を得ることはできない。山のように大きな、我への執着を持つものであって、はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。

『華厳経』第三四 入法界品

 こうした共通点や共感できる言葉が多々あることで、星野さんの詩が『築地本願寺新報』にも掲載されたのでしょう。

 個人的な意見ですが、今後、仏教と他宗教との比較がなされる場合、教学的な部分だけでなく、心情的なところにおいてもなされていくと、共通点や相違点がより明らかになっていくと思われます。

 また昨日、東西仏青交流会でこれを話題にしたところ、“この「いのちより大切なもの」という表現は、いのちを比較できる対象としてとらえかねない言葉ですから、表現としては適切でないかも知れませんね”(吉田さん談)という意見も聞かれました。
 他と比較してばかりいたいのちを、「比較できないいのち」と頂いてこそ生きることが嬉しくなる、というような表現が本当かも知れません。


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